⭐︎写真に残す  テトラグラフ④

 

ここ数年で、写真業界はがらりとその景色を変えました。

もともと、写真館で写真を撮るという行事は、ハレの日の特別なもの、一般的にそんなイメージでした。ハレの日が消えてしまったとも思えるような突然の非日常に、世界中が急な一旦停止を余儀なくされ、写真業界も、もれなく影響を受ける形となりました。

 

 

しかし最近、そんな中だからこそ家族写真を撮る人が増えている、というデータがあります。

ご家族が揃うこと、いつでも会えること、気兼ねなく好きな時に好きなことができること、好きな場所に行けること。あたり前があたり前でなくなって、崩れていくものもあります。でも、変わったからこそ、変わらないものが目の前にはっきりと見えてくることもある。

過ぎ去った静かな時間は、「ハレの日は消えたのではなく、形を変えてその意味を変えていた」ということを教えてくれました。

 

なかなか会えなくなってしまったおじいちゃん、おばあちゃんに、写真を贈りたい。お出かけできなかった七五三、結婚式を中止にせざるをえなかった新郎新婦、せめて写真だけでも残してあげたい。今の家族に出会えたことへの感謝を形にしたい。

通り過ぎてゆくだけの毎日に、いつもそこにあると確信してるもの。確信は常に揺らぐものであるということを突きつけられたとき、その揺らぎを消えないうちに留めておきたいと思うのは、ただのセンチメンタルではなく、むしろ必然なのかもしれませんね

今、「写真に残す」ということを、私たち撮る側も、もう一度考えています。 

 

 

ハーフ成人のご記念で来てくれた女の子。慣れない着物で、疲れてしまいました。

お母さんは、そういえば、、といって教えて下さいました。もう随分大きくなって、頭をなでることもなくなったから忘れていたけど、その子の頭を、意識してなでるようにしていたことを。「この写真を見て、思い出しました。」

 

写真は、生きる上で必須のアイテムではありません。写真がなくても、人間は生きていけます。でも、それは本当にそうなのかな、と時折思います。

撮影に入ると、予想に反して残ってしまうものがあります。

その人が生きる日常がにじみ出て、思わずぐっと胸をつかまれる瞬間が焼き付けられているのです。

目に見えるものを、丁寧にひもといていくと、見えなかったものが現われる。写真は、そういうツールなのかもしれません。